プリンス 7 つの質問 09 坂本 圭

 

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Sananda Maitreya (TTD) 公式サイトより

1.あなた自身を紹介してください。 

 
 坂本圭と申します。1970年6月8日生まれ。双子座。戌年です。プリンスとはひとまわり違いますので、プリンスも戌年で誕生日が1日違いです。惜しい!札幌出身、現在は埼玉県在住です。13年間、札幌の私立高校で体育教諭として勤務し、サッカー部顧問を勤めました。2012年3月末に退職し、4月にスペインのバルセロナへ妻と犬2匹と渡西、スペインサッカーコーチングコースを受講し、最高レベルであるレベル3を取得しました。バルセロナに6年間住みました。プリンスのアルバムComeの表紙としても有名なサグラダファミリアが大好きです。現在は、サッカー研究家、サッカー関連の本執筆、フットボリスタ等の媒体で記事を書いたりしています。
  趣味は、音楽鑑賞です。プリンスはもちろん、最近はミュージカル映画サウンドトラックも好きです。サルサダンスを札幌で6年間学び踊っていたので、特にキューバサルサミュージック、レゲトンなどのラテン音楽も好きです。レニー・クラヴィッツジミ・ヘンドリックスも好きです。ジャズにはあまり詳しくはないですが、マイルス・デイビスビル・エバンスをよく聴きます。
 次に読書も好きです。小説は村上春樹の本は出版されたらすぐに読みます。村上春樹の世界中で大ヒットした小説「海辺のカフカ」で、主人公の少年が聴く音楽はいつもプリンスでした。村上春樹はクラシックから、ロック、ジャズまで幅広く音楽に精通しているので、いつかプリンスの音楽について語ってもらいたい、書いてもらいたい、対談してもらいたいと密かに強く思っています。村上春樹とプリンスは実は似ています。LGBTへの理解、セックス描写、作品に対するストイックさなど共通点は多いと思います。
 もう一つの趣味はサッカー観戦です。これは仕事でもありますが。FCバルセロナのソシオに入るくらいバルサが好きで、いつも試合をテレビで観ています。バルセロナに住んでいた時はFCバルセロナのスタジアムから歩いて8分くらいのところに住んでいました。チケットが高額なので、そんなに多くの試合を観戦することはできませんでしたが、クラシコチャンピオンズリーグなど様々な試合を生で堪能することができました。
 
2. あなたはどうやってプリンスファムになったのですか?
 
 1984年にサッカー部の練習でグラウンドの周りを皆で和気藹々とランニングしていた時に、音楽に詳しい友達が、「プリンスって知ってる?」とみんなに質問。「プリンス?」「なんだそれ!?」という、みんなの反応でした。私にとってそれが初めてプリンスを認知した瞬間でした。「マイケル・ジャクソン、マドンナ、そして・・・プリンス?」絶対変だよね!というみんなの反応!私もその一人でした。ふざけた名前だと。 
 私たちの世代は、洋楽世代であり、マイケル・ジャクソンのスリラーをMTVで観て驚愕した世代でした。マイケルのスリラーにはノックアウトされて、こんな音楽というか、映像というか、ムーン・ウォークをはじめとする今まで見たことのないダンスなど、マイケルの存在自体がありえないと思うほどに彼の音楽にダンスに興味を持ちました。中学生の頃はマイケルを聴いて育ちました。彼の音楽は健全で、心が美しくなるように感じていました。
 ただ思春期というのは、それで満足する世代ではありません。「新しい世代の音楽」を直感的に無意識に探していたのだと思います。私は何かに惹きつけられるように、深夜、親に隠れて11PMやイタリア映画「青い体験」を見るような感じで、ベストヒットUSAでプリンス特集があると、一人で、居間で静かにその特集を見ていました。本当に四つん這いになって、手だけで歩いたりするのだと、評判通りの姿に、ショックを受け、これは見てはいけないものを見たと思いました。
 それと同時に彼の多分Let’s go Crazyだと思うのですが、曲がめちゃくちゃ速いなと思いました。こんな新しい音楽があるのだ。そして、あんなルックスで、あんな格好で、あんなことをして歌っているのに、メロディが耳に残る、キャッチーだと思ったのです。それがプリンスの醜い美しさに気がついた瞬間だったのかも知れません。
 ただ、それ以降は、マイケルがWe are the worldをやったりしたので、そちらに夢中になっていました。同時に「プリンスがパープルレインの後、新しいアルバムを出したけど、良くないらしいよ。」という噂を伝え聞いていました。それと極少数ですが、「実は新しい方が好きなんだよね」という友達もいました。当時14、15歳。友達とよく玉光堂レコード店)に行って、レコードジャケットを見たり、音楽雑誌を見てプリンスが嫌いなアーティスト1位に君臨しているのを見て、「これはこれで凄いな」と思った記憶があります。あるときは、友達がパープルレインの洋盤と日本盤のレコードジャケットのバイクの傾き方が違うことを友達4、5人で確かめに玉光堂に行ったこともあります。僕たちは何気にヴァン・ヘイレンの大ヒットアルバム1984のジャケットも好きでした。
 私がいつも行動を共にするサッカー部の友達4、5人全員が洋楽ファンでした。サッカーの練習の帰り道に雑誌とお菓子、プラモデルが売っている店で、ビルボードチャートの本を一人が買って、「プリンスのパープルレインまだ1位だ!」とか、「プリンスが抜かれた、ブルース・スプリングスティーンのボーイン・ザ・USAが一位だ。すげー!」というような日常を過ごしていました。
 この1984年は特別な年で、よく記憶しています。グラミー賞マイケル・ジャクソンが7冠を制し、スリラーの売り上げはギネスブックに載りました。ロスアンゼルスでオリンピックがあり、カール・ルイスが4冠を制しました。そして84年に流行った色はパープルでした。学年対抗陸上競技大会があり、ハチマキの色をクラスで選ぶのですが、パープルが選ばれました。他のクラスにもパープルがいてというそれくらいパープルが1984年に流行っていました。1984年にパープルがなぜ流行ったのかは、後付けで気が付きました。この1984年は世界中でパープルレインが降り続く年だったのですね。
 その後、チェッカーズのフミヤはスプリットをし、吉川晃司はロングコートにギターを弾きながら歌っていました。今思えば、プリンスの影響を多くの人が受けていたのです。チェッカーズはその後、円形ステージにもトライしています。現在はアイドル全般、世界中で様々なアーティストが円形ステージを使っていますが、流行を作ったのはプリンスのLOVESEXYツアーの円形ステージなのだと思います。。
 高校は、北海道内でサッカーが強豪な私立高校に進学したので、音楽よりもサッカーに熱中していました。この時期、少しプリンスから離れました。ただ、日本いや世界中でマイケル・ジャクソン旋風が凄まじく、BADのテープを買って毎日聴いて、日本公演を録画してそれを何度も何度も見て「やっぱマイケルって凄いなあ!」と思い、その頃再びマイケル大好きモードでした。
 私が高校2年生の冬、寒い時でした。1987年です。ラジオから非常に奇妙な声で、しかも、耳に残る、どうしてももう一度聞きたくなる音楽が札幌のいたる所で流れたのを耳にしました。これ誰!?とその時思い、調べると曲名は「サイン・オブ・ザ・タイムス」、アーティスト名はプリンスじゃないですか!「えええ、これプリンス!?」衝撃でした。音楽を聴いてこれほど衝撃を受けたのは、後にも先にもおそらくないと思います。今まで聴いたことのない斬新な曲でした。玉光堂に行くと、確かCD2枚組だったので5000円以上しました。全てのお金と時間をサッカーにつぎこんでいた私には買ええず、泣く泣く諦めました。
 
 
 翌年1988年、サッカー部を引退した高校3年の秋です。部活がなくなり、時間に余裕ができた私は再び音楽に興味を持ちました。東京の方の体育大学に進学することが推薦で決まっていたので時間があったのです。深夜一人で、居間にあるステレオが最も音が良いので、そこでFMラジオを聴いていました。その時、今まで聴いたことのないような美しい曲がかかりました。ファルセットで歌われ、男性が歌っているのか、それとも女性かわからないほどの声とメロディの美しさと洗練された演奏に圧倒されました。DJが最後に「プリンスのLOVSEXYから何たらかんたらでした」と言いました。その時、曲名(When 2 R in love)はわかりませんでしたが、LOVESEXYというアルバムタイトルだけはわかりました。次の日の学校が終わってすぐに玉光堂に直行して、LOVESEXYの真っ裸なアルバムジャケットにおののきましたが、CDを購入し、家でじっくり聴きました。どの曲も素晴らしく、今まで聴いたことのない音楽で、9曲で1曲なのだと理解しました。
 
 
 ここから、プリンスファムになり、CDを買いあさりエディ・マーフィのテーマソングがDeliriousなら、僕のテーマソングはLittle Red Corvetteだと思っていました。Free、そしてInternational loverも大好きでした。
 その後パープルレインの映画のビデオに感動し、それから何十回と見ました。私もBSでLOVESEXYツアーを観てしまい、このライブは凄いと興奮し、ライブに行きたいといてもたってもいられなくなり、新聞の広告欄をいつも眺めていました。1989年高校3年生の2月だったと思います。もうすぐ卒業ですが、札幌ではLOVESEXYツアーのライブはなく、一番近くて仙台でのライブでした。その当時、一人で北海道を離れたことも、ライブを見に行ったこともない私は、親にプリンスのライブに行きたいから、航空券を買ってくれとは言えず泣く泣く断念した苦い思い出があります。
 追記ですが、中学2年生の冬1985年2月に確か、映画パープルレインが日本で公開されました。私は新聞のパープルレインの映画広告を見ながら、毎日、観に行こうか散々悩み結局行きませんでした。おそらく中学2年生の私には早すぎたのかもしれません。その頃映画はジャッキー・チェンスター・ウォーズスピルバーグ映画、マッドマックスなどにハマっていました。その後、プリンスのパープルレインツアーのビデオを買って、これも何十回と観て、親に「マイケルより凄いよ!」と何回もわめいていたのを覚えています。母は「そう?」と言って一緒に観てくれましたが、「やっぱマイケルがいちばんだね」と言っていました。1990年、札幌で母がプリンスのNUDEツアーを体感するまでは。
 私はその当時、東京の大学に通っていたので、札幌公演には行けませんでした。母は初めて生でみるプリンスのパフォーマンスに、二つのパイプ椅子の上に立ちあがって熱狂したそうです。母は電話で「パープルレインがものすごく良かった、パープルレインのドラムがズシーン、ズシーンと響いて迫力がすごかった。それとThe Question Of Uもいいね。コンサートが始まったら最初から、ノリノリだったよ。」と興奮して話していたのを思い出します。それ以来、母の車ではいつも、90年のnudeツアー前に発売されたアルバム、Graffiti Bridgeを聴くことができました。今はもう母は車に乗らないので、聴くことはできないですが。その札幌のライブ以来、私の母のお気に入りはThe Question Of Uです。
 
  父はクラシック、現代のクラシックギター奏法の父とみなされるスペインのアンドレス・セゴビア、そしてイタリア民謡を歌うことにしか興味がありませんでした。
それでもプリンスのライブを見せると、「うまい!でも、変だね」と父なりの表現で認めてくれました。
 
3 .あなたの最も記憶に残る「紫の経験」は何ですか? 
 
プリンスの記憶はやっぱりライブですね。運良く11回も体感することができました。
本当は12回目の予定もあったのですが….私の12回目のライブとして予定されていた、ピアノ&マイクロフォーンツアーを2015年12月13日に、バルセロナのリセウ劇場で観る予定でした。しかし、フランスでの無差別テロが起こり、ヨーロッパツアーが急遽キャンセルになったのでライブを観ることができませんでした。これは悲しい思い出です。
 11回のライブは全て素晴らしかったのですが、イギリスに語学とサッカーを学びに1年間留学した1993年にプリンスのACT2ツアーのライブを4回体感しました。その中でも、世界のサッカーの聖地であり、ライブエイドでも使われたウェンブリー・スタジアムを満員したライブは今でも忘れられない凄まじい体験でした。1993年当時、12万7000人収容の超巨大サッカースタジアムです。そのウェンブリースタジアムが超満員となりました。ソールドアウトです。スタジアムの後ろまでぎっしり人が詰まっていました。
 プリンスのヨーロッパツアーは常にソールドアウトです。前年、1992年のダイアモンズ&パールズツアー(D&Pツアー)はロンドンのライブ会場の聖地アールズコートで8回連日行われ全ての回がソールドアウトでした。映画「ボヘンミアンラプソディー」を観た方なら、あのスタジアムの大きさとファンの熱気がわかると思います。その日のプリンス初のウェンブリースタジアムでのACT2ライブはそのような凄まじい熱狂の中で行われたのです。その当時、チケットを買えば座席は自由でした。私は、ステージ前のオールスタンディングの中腹当たりに一緒に行った友達と場所を確保。今思えば、水を持っていたのか、トイレに行くことができたかとか思い出せませんが、ペットボトルが時折投げられて宙を舞っていましたので、水を浴びることはできていました。7月31日でしたが、ロンドンの夜なので涼しく過ごしやすかったと思います。ロンドンの夏は昼が長いです。夜10:00でもまだ夕方のような感じです。その当時のチケットを見るとゲートオープンが16:30でした。そこから何時間待ったかはわかりません。辺りが少し薄暗くなってから始まったので、おそらく21:00頃にライブが始まったかと思います。ACT2ツアーのステージは限りなくシンプルでした。ステージの頭上にプリンスの巨大シンボルマーク(照明としての機能も果たす)があるだけで、例えば、D & Pツアーのような豪華さはありません。Nudeツアーのように2階建のステージになっているわけでもありません。いたってシンプルなステージで、「演奏を聴け!」ということだと理解しました。
 ライブは突然、始まりました。ついに始まった!と思いきや!なんとステージの頭上からMy Name Is Princeの衣装とあのチェーンがジャラジャラついたキャップをかぶった(顔が見えない)プリンス?が、ブランコのような椅子に座って、観客を煽りながらゆっくりとステージに降りてきます。降りてきたら、色々踊って、歌って、グランドピアノを開けて風船を出して、ステージの前にきてファンに向かって片膝を立てるような感じで深いお辞儀。
 それが終わると、いきなり上着の胸元をはだけます。中からピンクのブラジャーのようなものが見えます。次にズボンを一瞬で剥ぎ取ると、ピンクのビキニを着た女性が!!!ゆっくりとチェーンのキャップを取り、頭をクルッと回すと長い黒髪がストンと落ち、女性が踊り出しました。ダンサーのマイテでした。マイテがプリンスに変装していたのです。あっけに取られているとSexy MFのイントロとともにプリンスがラップしながら登場、ここで盛り上がりが最高潮に達します。
 Sexy MFを叫ぶところにくると、このライブに来ているイギリス人はSexy MFを連呼するために来たかのように大きな声で、「Sexy MF!」と叫びます。私はこの時、イギリス人はプリンスの本当のファンだと思いました。色々な国で放送禁止になったり、クリーンバージョン(編注:放送禁止部分が聴こえないようプリンスのシャウトが被されている)がリリースされたりしたSexy MFですが、イギリス人はストレスでも発散するかのように野太い大きな声で「Sexy MF!」と叫びます。
 後で調べたのですが、なんとSexy MFのシングルがイギリスチャートで1位を獲得しているではありませんか!アメリカでは66位だったのに。ちなみにイギリスチャートで初めて1位になったプリンスの曲はオーラルセックスを歌った名曲Alphabet St.です。アメリカでは8位でした。BatdanceとThe Most Beautiful In The Worldもイギリスシングルチャートで1位になっています。プリンスのアルバムはイギリスで1988年のLovesexyから1994年のComeまで全て1位です。Diamonds&Pearlsは惜しくも2位でしたが、Batman、Graffiti Bridge、Love Symbol、そしてComeが1位です。ベスト版:The Hits/ The B-sideは4位と5位でした。
 シェークスピアやオスカーワイルドなどの文豪や芸術や音楽が発展したイギリスはプリンスの本質を理解できるんですね。イギリス人は建前上、Fから始まる4文字の言葉の使用を嫌いますが、ライブやサッカーの試合ではその言葉を大声で連呼する二面性があります。もう最初から、我を忘れてしまいました。みんな押し合いへし合いしながら、前に押すので、プリンスが見えなくなることも。Act2ツアーは、ヒットメドレーの要素が多いライブなので、ずっと盛り上がりぱなしでした。バラードSometimes It Snows In Aprilを歌う頃に少し落ち着いてプリンスを観ることができますが、The Beautiful One など後半が盛り上がる曲では、オーディエンスも気が狂うほど叫び盛り上がります。
このツアーはバラードが特に素晴らしく、珍しいところではScandalousを歌いました。この曲プリンスのお父さんとの共作ですよね。サックスが途中から入ってきて、プリンスの声と絡み合い、感動の嵐だったのを覚えています。
 サックスは女性だったので、キャンディーダルファーだったのかと思いましたが、後で調べるとCathy Jという女性バリトンサックス奏者でした。彼女のサックスはScandalousに最高にマッチしていました。身体をのけぞるようにして、エモーショナルに吹きました。イギリス人は本当にプリンスが大好きです。もう押し合いへし合いの状況がずーっと続き、Let’s go crazyなどの大盛り上がりする曲では、みんな前に行くじゃないですか、そうすると私も押されて前に出ると、前の女の子から「FxxK off!」と、何度も言われながら観ていました(苦笑)
 ライブの途中から、一緒に来た日本人の友達ともはぐれてしまいました。日本でもNudeツアー、D&Pツアー、ゴールド•エクスペリエンスツアー、ワンナイトアローンツアーにも行きましたが、やはりヨーロッパの盛り上がり方は凄いです。スタジアムのスタンド席以外、オールスタンディングなので、立ち見で押し合いへし合いしながら、背の小さい女性は男性に肩車されて観る人も多いです。プリンスも言語が同じなのでよく喋りますし、オーディフェンスの反応も素早い。ライブ映像でよく見られる、失神して後ろに運ばれる女性も多く見受けられました。ボディガードや警備も大変です。前で苦しそうにしている女の子を引っ張り出す。自分からファンの波に身を委ねてみんなでその人を後ろの方に運びます。おそらく水を飲んだりするのでしょう。そして回復したら、ファンの波に入っていくのです。
 何より、プリンスはイギリス公演全てにおいて絶好調というか、波に乗った状態でライブに臨んでいるように思いました。それとこのツアーでは一曲一曲、ほとんど省略せずに最初から最後まで歌っていました。パープルレインも全部歌い、ギターソロも圧巻でした。ライブの後半(ACT2なので)は、funk大会になったのですが、Americaが大々的に演奏されたことでしょうか。しかも、ステージ横に大きなアメリカ国旗を花火で燃やす演出もあり、Scandalousと同じくこのライブのハイライトだったと思います。
 
 
  私個人としては、これを超えるライブ体験ありません。一緒にライブに行った友達も感動していて、パープルレインの後は、後ろ方に行って観ていたと。帰りは二人とも放心状態で、深夜ロンドンの街をライブの感動の余韻に浸りながら夜行バスでマンチェスターリバプールの間にある小さな古い町のチェスターに帰りました。
 私は大学を卒業し、先ほど説明した小さな町チェスターに1年間サッカー留学をしていました。そこで英語を語学学校で学んだのですが、クレアというベリーショートの先生がある日の授業で、「自分のフェイヴァリットアーティスト、グループは誰ですか?フェイヴァリットソングは何ですか?」という質問をしました。クラスには15人くらいの生徒がいたと思います。私は最後の方に答える順番でした。基本的に語学学校はみんなの顔が見えるように机が円になって置かれています。みんな好きなアーティストを言うのですが、イタリア人の可愛い女の子たちが軒並み、「プリンスが好き!曲はCreamが大好きです」とか、他のイタリア人の女の子は、「私もプリンスが好き、Kissがいいよ」と、結局クラスの私を含めて4人くらいがプリンスファンでした。ヨーロッパ、とくに女の子にプリンスは人気があるんだなとその時思ったのと同時に、日本ではこの質問はできないなぁと。嫌いなアーティストNO.1だからなぁと。
 ある日曜日、ホームステイ先でみんなで昼間にTVを見ていた時のことです。音楽番組が始まり、そこで、いきなりPrinceのCreamのビデオが流れました。それをみんなで固唾を呑んで見たあと、私がプリンス好きだと知っているホストファーザーのトムは、「私はプリンスが嫌いだ」と何回も私に言いました。いつも温厚で、私に優しくしてくれているトムにしては本当に珍しい発言でした。やっぱりプリンスの作る曲の歌詞は、英語圏の人にとっては「嫌いだと思わせるものがある」ことを実感しました。逆にホストマザーのベティは、「私は、プリンスは良いと思うわよ。この曲もいいね。」と言ってました。一緒に見ていた14歳の娘さんは・・・何も言いませんでした。ただ、家では汚いFから始まる言葉や、SEXを連想させる言葉、映画などはご法度でした。
 でも、イギリス人の面白いところは、その年にワールドカップのヨーロッパ予選があり、それを家族全員で観ていたのですが、イングランドはヨーロッパ予選で敗退が決まると、トムは「FxxK」の4文字言葉を使って、審判を罵りました。私はイギリス人のそんな二面性と言うか、建前と本音が見え隠れするところが好きです。好きにせよ、嫌いにせよ、プリンスを生活の中に感じる留学でした。
 
 
 
 
 
4. あなたのトップ3のソウル・ソング(重要曲)は何ですか? 
 
1. Little Red Corvette
プリンスを決定的に気が狂うほど好きになった思い出の曲です。
個人的に洋楽を聴くという行為は、究極的なことを言いますと歌詞は二の次です。Little Red Corvetteの歌詞は、その当時ティーンエイジャーだった私にとってどうでもよかったのです。もちろん、プリンスの書く曲は、素晴らしい歌詞の曲がたくさんあります。比喩なども織り交ぜ、内容が深い歌詞ばかりです。ですが、二の次なのです。私はプリンスを歌手というより、ミュージシャンだと考えています。歌詞も、声もその音楽の楽器の一部でしかないと思ってプリンスを聴いています。Little Red Corvetteは、その当時の私が無意識に探して求めていた、聴きたかった曲でした。この曲にはマイケル・ジャクソンの曲にはない邪悪で刺激的な魅力とロックなパワーがあります。プリンスの曲はエロティックですが、それは人間の本性であり、それは哲学者ソクラテスが考える真実の愛の表れでもあります。私は音楽的には初心者なので、音楽性については論じませんが、Little Red Corvetteの重要性の価値は今となっては計り知れないと思います。
 Little Red Corvetteとマイケル・ジャクソンのビリージーンのPVが、MTVが始まって以来、初の黒人アーティストとしてヘビーローテーションされました。なぜ、これが画期的かと言うと、人種のクロスオーバーです。今まで黒人ばかりだったプリンスのliveに、この曲を契機として白人と黒人が半々になったからです。プリンスはパープルレインの前にLittle Red Corvetteで、黒人と白人の間にある壁を突き破ったのです。プリンス初の全米シングルチャートトップ10に入った曲です。最高位6位。最初の一度聴いたら忘れられない印象的なキーボードラインと、プリンスの欲求不満がたまり今に発車寸前の地声と圧巻のデス・ディッカーソンによるギターソロ。この曲を聴くと本当に疾走感があって、Corvetteに乗っているように感じます。今ではライブバージョンのLittle Red Corvetteもお気に入りです。
 
 
 
2. The Cross
これはライブで本当に凄い曲だと思いました。パープルレインの他に最も感動したライブパフォーマンスです。ライブバージョンは最後にホーンセクションも加わるので、最高のバージョンです。曲後半のプリンスの火を吹くようなギターソロとホーンの絡みが圧巻です。The Crossのliveバージョンを観るとキリストが君臨するような崇高な感動が得られます。
 1999年冬にペイズリーパークで行われたRave Un2 The Year 2000 LIVE DVDで、The Christと改題したliveの模様が納められています。ゴスペルを基調とするグループであるサウンズ・オブ・ブラックネスがコーラスで参加しています。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲のようなThe Crossですが、サウンズ・オブ・ブラックネスが参加するとゴスペルのように聴こえるから不思議です。たとえ様々な問題があっても信じ切れば問題は取り去られる、というメッセージです。
 
 
 
3. Nothing compares 2 U
1990年に、シンニード・オコナーのあの全編ほとんどが顔のクローズアップという魅力的なPVと共に世界中で大ヒットとしたNothing Compares 2 U(愛の哀しみ)で、この曲を知ることになりました。語弊があるかも知れませんが、Nothing Compares 2 Uだけは、プリンスが歌うよりもシンニード・オコナーが歌ったバージョンの方がさらに曲の繊細さが伝わるかも知れません。本当に愛した人との別れの哀しみに溢れています。
 元々はプリンスがThe Family(1985年)に提供した曲です。The Familyのアルバムも持っていましたが、このアルバムは実は名曲ばかりだとプリンスが亡くなってから、改めて聴いて気がつきました。この時期のプリンスは、プリンス自身にとっても本当に神がかった状態だったのだと思います。
 この曲はプリンスが亡くなってから、特に好きになりました。失恋の曲だと思っていたのですが、プリンスが亡くなった後にはプリンスが亡くなった悲しみを表す代表的な曲になったのです。「プリンスの音楽と比較できるものは何もない」といった感じでしょうか。プリンスを歌った曲に変わりました。
Nothing compares 2 Uを聴くといつも胸がキュンと痛みます。
Nothing compares 2 Uには、パープルレインやSometimes it snows in aprilと同じような厳粛さがあります。 プリンスのバラードの中でも別格だと思っています。比較できません。
 
 
 
 
5. 素晴らしいアーティスト/ミュージシャンをプリンスが私たちに紹介しました。あなたのお気に入りは誰ですか? どうして?
 
 プリンスと似たライブ感覚を得られたのは、テレンス・トレント・ダービー(TTD)です。1993年のイギリスで3回ほどライブを見ました。日本でも一回ライブに行きました。彼はもっとうまく自分を売り出せば、ビックスターになれたと思います。それでも最初の4枚のアルバムは特に素晴らしい作品だと思います。
 混血のアメリカ人ですがイギリスから1987年に華々しくデビュー。ファーストアルバムは世界で1200万枚以上も売れ、一躍スターの仲間入りです。1988年のグラミー賞の新人賞にもノミネートされ、度肝を抜くパフォーマンスを見せます。プリンスもTTDに関する全ての情報を集めさせていた、と、当時プリンスの父親、ジョンLネルソンが明かしていました。プリンスもTTDの大ヒット曲Wishing Well、If you let me stayをライブでカバーしたことがあり、プリンスもTTDに一目置いていたことが伺えます
 
新しいプリンス!
新しいマイケル・ジャクソン!とも言われていました。
 
 
 TTDは、彼のライブビデオ(テレンス・トレント・ダービー・イン・コンサート1987)
の中で「プリンスついてどう思う?」の質問に一言「天才!」答えています。1993年に大傑作アルバムSymphony Or Damnをリリース。イギリス音楽雑誌Qの表紙でTTDはヌードになりました。雑誌には当時のヌード写真数枚とインタビューが載っていました。確か、アルバムの評価も5つ星(最高で5つ星)だったはずです。その当時、かなりのインパクトがありました。Lovesexyのジャケットの影響は拭えないですが。その雑誌のTTDのインタビューで彼はプリンスについても話しています。1993年の雑誌Qのインタビューより抜粋します。
 
 『音楽の話がさらに続く。テレンスは息もつかずに30分くらいプリンスのことを話す。初めてプリンスの音楽を聴いたとき、彼は説明しようのないつながりを感じたと言う。実際に会ったプリンスは「すごい勢いで喋った、考えられないくらい」。そして「きみは詩人だ」とテレンスに言ったそうだ。テレンスはプリンスの唇にキスをした。ふたりはいまもときどき電話で話すとのこと(「相変わらず兄と弟って感じが強いけど」)。が、テレンスは警戒して、会話をそのまま再現してみせようとはしない。なぜなら「彼は俺みたいに大口叩いて失敗することがないように、慎重にふるまってきた人だ。それを俺がぶち壊したくない」。彼は長々と続いたプリンス話を、簡単に、感動的な言葉で結ぶ。「俺は彼を愛してる。心から」』
 
 93年当時、イギリスTTDの人気は凄かったけど、その当時レニークラヴイッツの全盛期でもあり、プリンスもまたイギリスではウエンブリースタジアムを満員にするほど絶頂期でもありました。どうしてもこの2人の影に隠れてしまうTTD。ただ、イギリスやヨーロッパでは人気があったと思います。プリンスやレニーと時代がちょっとでもズレていたらと思います。ライブは本当に素晴らしい。最後の方にピアノの弾き語りで歌うlet her down easy やスパニッシュギターバージョンのSign your nameの美しさは今でも覚えています。
 
 
 
 
 
 現在はサナンダ・ マイトレーヤと改名し、自身のホームページを通じて定期的にアルバムを発表しています。昔のカリスマ性はなくなりましたが、以前より幸せそうに見えます。TTDが再評価されて、またライブを見ることができると嬉しいです。


プリンスが突然の死を迎えた翌日の4月22日にサナンダ・マイトレーヤ Sananda Maitreya(TTD)はプリンスの死についてこのように述べています。
 
「私たちのアメリカのモーツァルトは去りました。神が死んだように感じています。私たちの世界を永久に変えてくれた偉大なマエストロに感謝します。」
 
 
6. プリンスの音楽は人生の教訓とメッセージでいっぱいでした。プリンスがあなたに与えた最も重要なものは何ですか?
 
「もし心を自由にすれば、理解できるかも」
Starfish and coffee より
 
いつも私の心にあり、この言葉を思い出すと、なんでも自由に思うがままに行動しても良いんだよとプリンスに言われている感じがします
 
次は、「プリンスの言葉」でインタビューを受けた実力派キーボーディストのミスター・ヘイズ(プリンスのバックバンド、NPGのメンバー)がプリンスから学んだこと:
 
「やめない限り、ミステイクではない」
 
 この言葉は、ハッとした気付きと自信を私に与えてくれました。自分のやりたいことをとことん突き詰めろ!自分の人生なんだから。失敗かどうかは人生が終わるまでわからない。とプリンスに言われているように感じ、妙に元気付けられました。それをやめない限り、諦めない限り可能性はあることにプリンスの生き様から気がつかされました。やめない限り、それは失敗でなないのです。
 
最後にプリンスのメッセージで重要だと思ったことは純粋に音楽、アルバムの重要性です。もちろん、一つの曲、シングルも音楽にとって重要です。ただ、アルバムはその時代や、そのアルバムを作った人のその時代の音楽の方向性やトレンドを如実に映し出していると思います。シングルになることはなくともアルバムには入るインストゥルメンタルだったり、小さな短い曲だったり、放送禁止用語連発の曲だったり、社会メッセージ性の強い曲だったり、10分以上の大曲など多様な曲がアルバムにはあります。
 現代ではどんな音楽もストリーミングなどで自由に聴くことができます。そのような聴き方はどうしてもシングルだけに目を奪われがちになると思いますし、実際に世界の流れはアルバムよりもシングルです。
もし、音楽にとってシングルが重要なのであれば、ベスト盤だけで事足ります。プリンスのようにアルバムごとに方向性やアルバムに入る曲の方程式、音色が変わるコンセプトアルバムをつくるアーティストも昔は多かったと思いますが、今はわかりません。
プリンスのLovesexyはその最たる例だと思いますし、パレードやサイン・オブ・タイムスはあの曲順でなければ不謹慎だと感じてしまうほどです。
 
グラミー賞2015のアルバム賞発表のプリンスのスピーチ:
 
「アルバムって覚えてる?
アルバムは今でも重要だよ。本や黒人の命の様に。
アルバムはずっと重要。今夜も、そしていつだって。」
 
 映画「パープルレイン」でプリンスは映画のクライマックスでパープルレインを歌います。冒頭に
 
「君を悲しませるつもりはなかった
君を傷つけるつもりもなかった」
 
と歌います。映画の中で恋人であるアポロニアを殴るシーンや、殴ろうとするシーンもありました。映画の中でパープルレインを歌った後、ステージに戻ったプリンスはI would die 4 Uを歌います。
 
「僕は女じゃない 僕は男じゃない
君には絶対分からない何かだ

絶対に君をたたかない
絶対に嘘はつかない
君が罪深くてもそのうち許すよ」
 
 プリンスのルックスは男とも女とも言えないフェミニンなルックスです。ここでプリンスは「絶対に君をたたかない」と宣言します。つまり、映画パープルレインの劇中で殴って傷つけたことを謝り、I would die 4 Uで、暴力を振るわないことを宣言しています。
 
ちなみに90年代以降、パープルは女性への暴力の根絶を訴える色、国際女性デー、フェミニズムを象徴するシンボルカラーになりました。
 

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LGBTという概念をご存じでしょうか?欧米では1990年代中盤以降に一般化された言葉でレズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーの略です。LGBTという用語は「性の多様性」と「性のアイデンティティ」からなる文化を強調していて、プリンスの価値観に近いように思います。

 
これはLGBTのシンボル・フラッグです。

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 プリンスは2001年にアルバム『ザ・レインボー・チルドレン』を発表。「レインボー・チルドレンとは、インディゴ・チルドレン、クリスタル・チルドレンに続いて地球に転生をしてきた、愛と調和に満ち溢れた子供たち」とされています。プリンスの作品、『クリスタル・ボール』、『インディゴ・ナイト』といった部分にも少なからずリンクしているような気がします。
 
7. 次世代にプリンスを紹介する方法は?
  
 自分で、できるということではないですが、プリンスのドキュメンタリーや映画、ドラマを作成することではないでしょうか。動画の時代なので、いかにプリンスの音楽の素晴らしさを動画で伝えるか、それとプリンスついての本を出すことで、それを読むNew Power Generationが必ずいるはずなので、好きになると思います。
 モーツァルトやベートーベンのように子供でも読めるプリンスの伝記があると素敵だな、と思います。親は子供に偉い人の伝記を読ませるので。あとは動画でプリンスのライブが検索されるといいですね。