プリンス 7 つの質問  12 井上 ミウ

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1.あなた自身を紹介してください。

 

井上 ミウ、国籍は日本です。職業は、コンテンポラリーダンサー、パフォーマー、アロマセラピスト、調香家です。好きなことは、踊ること、植物を育てること、発酵、映画、絵を描くこと、歌うこと。イメージすること。何かを作ること。生きることの全てです。

 

2. あなたはどうやってプリンスファムになったのですか?

 

 ベストヒットUSAという番組で、すごく魅力的なのにPVが流れず、アルバムジャケットしか映らない曲がありました。しかも、3曲です。そのアルバムジャケットにすら、アーティストの姿は写っていない。紫色で何かゴチャゴチャと絵が描いてある。

  曲名は1999、Little Red Corvette 、Delirious。刻むビートの合間にひょいっとひとつ爪先で飛ぶような、聴いたこともないリズム。その爪先はラテン音楽のような絶妙なキックで、私の心臓を蹴るようでした。なんだかドキドキして胸が痛かったです。程なくラジオで、そのアーチストが「25歳の天才少年プリンス」と紹介されるのを聞きました。私より11歳年上の、まるで少年のような妖しい人でした。

 当時私はデヴィッド・ボウイのアルバムを集めていて、お小遣いが足りず、駅前のレンタルレコード屋から『1999』を借りて来ました。レコードに針を落としたのですが・・・。

 「この人はどうして私のことをこんなにもわかっているのか」と思うほど、プリンスのビート感は私の心臓と同じだったのです。フレーズがループするごとに、螺旋を描いて私の中を昇っていきます。小学時代はディスコ全盛期、そこからパンク、ニューウェイブ、グラム、ゴチパン、ノイズと音楽の嗜好は広がったけど、これほど踊る衝動が沸き起こるのは初めてでした。胸が締め付けられるのに、踊ることをやめられないのです。

 

 そしてアルバム後半、『Free』。歌詞はほとんど理解出来ないのに嗚咽がこみ上げて来ました。プリンスが「Free」と発する度に「自由」の困難さと、切望を感じて・・・。

 

 

  80年代初め、地域の中学はかなり荒れていて、1年の段階ですでに教室の窓ガラスは割られ、授業中は後ろのロッカーが燃えていました。教師が生徒たちを追いかけるたびに、授業は中断されました。ただ教員であることだけに胡座をかき、成長をやめた人たちと、それにNOを突きつける、甘えた子供たち。私は、どちらにも共感出来ませんでした。日常的に暴力がある環境で、私は顔に火傷を負って、次第に人と上手く話が出来なくなっていきました。
 だから必死で、毎日必死で、自分と世界の境界の壊れてしまう外壁を、塗り固めて修復して、なんとかその日を生きていたんです。叫ぶように歌う彼の声は、私に「生きていてもいいよ」と、言ってくれるようでした。性的な表現も含め、「生きていることを全肯定してくれている」ようだったんです。

 

3 .あなたの最も記憶に残る「紫の経験」は何ですか?

 

 ひとつめは、ドイツに来て2年目の夏のことです。苦しかった思春期をPRINCEをはじめとする音楽に救われて、表現することで自分を見つけ、それを生業としたんですが、体調を崩してしまい半年ほど引きこもったんです。

 「このまま自分はダメになってしまうかも知れない。だったら、その前に国境を見よう」と思い立ち、北京からシベリア鉄道に乗り、友人のいるドイツへ、バックパックを背に一人旅をしました。22歳の時のことです。ソ連最後の年、初めて見た国境は驚くほどのどかで、緑が美しかったです。そのドイツで、ルドルフ・シュタイナーアントロポゾフィー人智学:19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツ語圏を中心とするヨーロッパで活躍した哲学者・神秘思想家のルドルフ・シュタイナー1861年-1925年)が自身の思想を指して使った言葉)に出会いました。今までとは全く違う表現「オイリュトミー」(ルドルフ・シュタイナーによって新しく創造された運動を主体とする芸術)に惹かれ、そのまま学校を決めて留学してしまったのです。一言もドイツ語は分からない状態、辞書と首っ引きの日々でした。

 夏休みを利用して語学学校に通っていた時のことです。長期休暇に旅行を兼ねて語学学校に通うのは、ヨーロッパでもよくあることで、そのクラスもクロアチアからブラジルまで、国際色豊かでした。仲良くなったメンバーで、森でピクニックをすることになりました。

 私はスペイン・カタルーニャから来たエスタという女性の車に乗って森へ向かいました。出逢った時から、彼女に惹かれるものがありました。スペイン語で「星」を意味する名前の彼女、エスタがカーステレオにカセットテープを入れ、「これは私のテーマ曲よ」と言った次の瞬間、『Let’s Go Crazy』が流れたんです。世界が、急にいきいきとし始めました。

 

 

「ああ、そうだ、私はプリンスファンだったのだ!!」

 

 と、思い出したんです。ドイツに来てからは、授業で使うバッハなどのクラシック音楽や、ゲーテやシラーといった詩にどっぷり浸かっていて、1年以上プリンスを聴いていなかったのです。プリンスのドイツ公演の広告を横目に見ながら、室内楽やオペラ、バレエの舞台ばかり見ていたんです(学生なので安かった!)。あ、でもソニック・ユースだけは行きました。前座はなんとあのニルバーナでした。

 海外暮らしの2年目、内なる日本的なものと、外側のヨーロッパ的な世界観とのギャップに苦しむようになりました。このまま頑張って何年もここで学ぶべきなのか、悩んでいたんです。それが、プリンスを聴いたとたん、「あー、私、自分の表現をしなくちゃダメだ」と気がつきました。自分の言葉(表現方法)でちゃんと自分を語らなくてはダメだ。それが世界を語ることになるんだ、と悟りました。これを機に、自分なりにドイツでの学びに終止符を打ち、半年後、日本へ帰ることになりました。そしてまた新たに、自分の表現と向き合い始めたのです。

 

 ふたつめは、長男が生まれた時のこと。帰国して結婚し、子供を授かりました。
先天的に重い障害を持って彼は生まれました。NICU新生児集中治療管理室)に長期入院となり、手術を繰り返して・・・。長男を救う情報が欲しくてインターネットを繋いだ。まだ電話回線だった頃です。けれど、どうしても辛くて障害についてのワードを検索に入れられす、プリンスと入力しました。何のページからか忘れてしまったけど、渋谷のクラブでプリンスだけをかけるオールナイト・イベントがあると知りました。

 子供の入院している日程だから、家から出ることができる!踊りに行こう!しばらく夜遊びもしていなくて、まるで王子様のパーティーに向かうシンデレラの気持ちでした。初めて爆音で聴くあの曲、この曲。ここにいる人、みんなプリンス好きなのか!みんな踊り上手で、朝まで踊り倒していました。その中の1番踊りの上手い男の子(笑)から、ファンなら絶対に行くべきサイトとして、NPG music siteを教わりました。そこから一気に世界が広がり、たくさんのプリンス・ファムに出会うことになりました。

 現実世界では、医療器具を持ち込んで子供の在宅介護が始まりました。睡眠時間が短く、家から出られない日々を、プリンスの音楽と、それを一緒に楽しむネット上のファムの存在が救ってくれました。サタデーナイトフィーバーのジョン・トラボルタのように、普段は介護(育児のつもりなんだけど)でボロボロでも、たまに行けるプリンス・イベントのダンスフロアでは"Baby I'm a Star"でした。夜毎のリスニング・チャット、プリンスのRPGゲームのようなサイトの攻略、ネットを介してやっとファムは自分一人じゃなかったことを知りました。
 そして、最後の来日公演となった2002年O.N.Aツアーを迎えました。私にとっては初めてのライブ。それまでは好き過ぎてライヴに行けませんでした。プリンスとの遠い距離を思い知らされるようで・・・。チケットを取るまでの大騒ぎは、プリンスの会員制音楽クラブ・NPGMCのメンバーの協力なしには乗り越えられませんでした。

 私は思い切って子供が生まれた時からお世話になっているケアマネージャーさんに相談しました、「私はプリンスのライブに行きたい」と。こんなことを相談していいものかと、とても悩みながら。でもケアマージャーは、そんな私を非難することなく「行ってらっしゃい!」と1週間子供を預かってくれたんです。これは緊急一時預かり、ショートステイという制度で、今では障害を持つ人をケアする家族にとって一般的なことになっています。

 こうして臨んだ東京フォーラム、浜松、武道館2日の4公演。浜松公演では、ステージに上がることが出来ました。すぐそばに、プリンスがいました。キーボードをはさんで向かいにいる、彼の指が見えました。「気を失うっていうのはこういうことか!」と思うほど、サーっと血の気が引きました。「これは夢じゃないのか?」曲は"All the Critics Love U In New York”。初めて聴いたアルバム『1999』、あの子供だった頃夢中で聴いた曲。私は今、その曲で本人と踊っている。信じられる?あの頃の私に言っても絶対に信じないと思う!!「生きていていろんなことがあったよね、でも生きているとこんなこともあるんだよ」、なんだか彼にそう言われた気がしました。

 曲が終わって私の前を通る時、プリンスはそっと短い握手をしてくれました。彼の手を私は一生忘れないでしょう。

 

4. あなたのトップ3のソウル・ソング(重要曲)は何ですか? 

 

“Diamonds and Pearls“

 

 「もし僕が真珠とダイヤモンドをささげたなら、君は小さな子供のように喜んでくれるだろうか」

 PVでのクラシカルなダンスがよく似合う、ロマンチックな曲です。ゲストボーカルのロージーが、そのロマンチックさを、外へ外へと開く力を与えています。私が本当に辛い時に、真珠とダイヤモンドをプレゼントしてくれた人がいました。「まるで歌の通りじゃないか!」と思いました。その人は曲を知らなかったけれど。

 

“Purple Rain“

  

 電話でかなりシリアスな話をしていた時、急に英語の何かの放送?が混線し始め、ラジオDJが何か曲紹介をして“Purple Rain“が流れました。最初の静かなギター。波のようにかき鳴らし、寄せては引いていく・・・。それだけで、それまでのトゲのある深刻な空気は、どう表現していいのか分からないが、「清らかになってしまった」気がしました。訳がわからず、ふたりして会話を止めて雑音の混ざるPurple Rainを聴いていたのです。

 いろんな友情や愛情の終わりがあります。後悔もあります。でも、Purple Rainは始まりも終わりも全てを肯定する力のある曲です。「ただ、君を見ていたかった」人と人の出会いはそれが全てなのかもしれません。まるでフィクションのような話です。

 

“Sometimes It Snows in April“

 

 2019年の11月に長男が亡くなりました。

 入院はしていたが、本当に急なことでした。主治医の病院ではなかったため、彼はその地域の警察署に置かれることに。一晩経って朝、安置されている場所へ、家族を乗せて私が車を運転しました。1時間余りの移動時間、運転中はなるべく集中出来る様に、いつも通りプレイリストをかけました。息子の元へ着く頃、この曲が流れました。静かなピアノとスキャット、優しい、でも少し諦めたような歌い出し。ところどころマイナーコードを思わせながら、なぐさめるようにそっと曲は進みました。

 

「時には4月に雪が降るように、時には心が沈むことだってあるよね」

 

 静かに車の中に歌が響いて。街の音が重なりました。そして、目的地が近づいてきます。ウィンカーを点滅させて駐車場に入ると、涙があふれました。エンジンを切って、息子に会いに向かいました。まるで一編の映画のようでした。

 

5. 素晴らしいアーティスト/ミュージシャンをプリンスが私たちに紹介しました。あなたのお気に入りは誰ですか? 

もちろん、トップはシーラ.E。

チャカ・カーン
キャンディ・ダルファー
なども、彼が関わらなければ、聴くことはなかったかもしれません。

この3人に共通に感じることは、プリンスに関わっても「取り込まれなかった」こと。
自身がミュージシャンであることを揺るがせない、強い存在感があります。

シーラの楽曲では「Glamorous Life」が本当に好き。シーラのソロ来日公演は、高校生の時にちゃんと行きました(プリンスは行けなかったくせにw)ラテン的な焦燥感。焦がれるように、タイトに心臓を高鳴らせるパーカッション。蹴り上げて鳴らすステージ・アクションにも惚れました。

 

 

 

6. プリンスの音楽は人生の教訓とメッセージでいっぱいでした。プリンスがあなたに与えた最も重要なものは何ですか?

 

私の人生の中で、何度でも、何度でも彼は気付かせてくれます。
「自分自身であれ!」と。

そしてまさに私にとって「ぼくはメサイヤ。君がその理由」でした。

 

7. 次世代にプリンスを紹介する方法は?


音楽ネット配信の時代になって、子供達の年代も、親世代の影響なくPRINCEに出会っています。自分の好きなミュージシャンが、あるいは尊敬する人が、「好き」って名前を挙げていたら聴きますよね。彼に影響された人は、大きな声で彼の良さを語って欲しいです。そして、楽曲も気軽に耳にする機会を。PRINCEを愛するミュージシャンたちがカバーした楽曲も、新しい人に届くだろうし、それが何より楽しいです!

 

 

miu (@ohya_sinju) | Twitter