プリンス 7 つの質問 01 ラジカル鈴木

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ペイズリーパーク・スタジオ

 

1.あなた自身を紹介してください。

 

ラジカル鈴木、日本、イラストレーターのほか、執筆やアート制作活動など。出版物を中心としたあらゆるジャンルのメディアへイラストレーションを提供。個展、国内外のグループ展に多数参加歴あり。受賞歴も多数。音楽誌やWebに、プリンスに関するイラストレーション提供、記事執筆。プリンスのイベンントを自ら企画し開催、またゲストスピーカーとしてNew Power Partyに参加。一般に、より深くプリンスの真価を伝えるべく、学生時代の口コミから、日本で、長年プリンスの魅力と実力について語ってきた。プリンスの考え方や行動原理を研究し、その"Princeism"を実践、独自の芸術活動を展開している。

 

2. あなたはどうやってプリンスファムになったのですか?

 

 プリンスファムになる前は、映画音楽ファン、洋楽ファンでした。兄の部屋のステレオで聴いたザ・ビートルズ、ベイシティ・ローラーズなんかから入り、小〜中学生のときはFMエアチェック少年で、ビリー・ジョエルがヒットしてて好きでした。放課後に友達の家に入り浸り、ステレオでレコードを大音響で聴いて、タバコを吸ったりしながら"これがロックなんだ〜"なんて思ってました、可愛らしかったです(笑)。デビッド・ボウイも好きでしたね。彼はもっと、アート心をくすぐるトリック・スターで、まったく別の存在でした。

 

 同時期"ダーティ・マインド"の頃、音楽雑誌で始めてプリンスを知りました。モノクロで半ページくらいのスペースで、例のコートとバンダナ、ストッキングの格好の写真で、何かとってもショッキングな奴がいる、という紹介のされ方でしたが、そのときはまだ音楽を聴くには至りませんでした。それから数年経て本国で"パープル・レイン"が大ヒットし始めると曲もFMでガンガン流れ初め、凄い音楽をやる奴だな〜、と気になり始めました。ヒットしているにも関わらず、当時の80年代のヒットチャートの曲とは明らかに違う何かを感じたのです。濃厚な渦巻く情念、そして過剰なまでのリビドー、良識からハミ出す何かヤバイもの。後で気づいたのは、ウッドストック世代の60年代の音楽に近い濃さ、だったような気がします。プリンスの敬愛するスライ&ザ・ファミリーストーンサンタナグランド・ファンク・レイルロード、リッチ-・ヘイブンス、ジェームズ・ブラウン、ザ・ローリングストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、彼らのくどさ、ヘビーさを、ペラペラな80年代に、時代に逆らってやっていたんですね。

 

  映画「パープル・レイン」を観て、決定的なファムとなりました。出身地にあったローカルな映画館で、高校3年生のとき「フットルース」(1984)と2本立てで上映していました。その存在、音楽の虜になった。目的で観に行った「フット〜」の記憶はどこかへ消えました。そして、それまで発売されていた彼のアルバムは全部買い、もっと聴いて観たくなって、当時まだ日本ではプリンスのソフトはレコード以外は皆無だったので、1985年の米ツアーのライブビデオをアメリカから輸入で取り寄せ、悶絶!! なんという自由さ、なんという面白さ、なんというエナジー、なんという才能の塊なんだ!! しかし、周りにプリンスファンは本当に居なかったですね、皆無でした。

 

 

3 .あなたの最も記憶に残る「紫の経験」は何ですか?

 

 KISSがチャートNo.1で席巻の'86年、プリンスが初来日するのを知ったときは、もうこれは、何を置いてでも行きたい!!! と、地元デパートのチケット販売所に走りました。埼玉県から横浜・関内の横浜スタジアムは片道2時間かかり、とても遠かったけれど2日間、足を運びました。生で見たプリンスは・・・もう神を現実に見てしまった、というくらいの体験でした、これだけで一万文字くらい簡単に書けます(笑)。

 1日目には私のフェバリットソング"17 days"を、まさか生演奏で聴けるとは思わなかった。やまない雨が振りしきるダウンタウンの一室 - 情景が浮んでくる。ノー・ドラッグソング。シンセサイザーの音色が、ホーンセクションにとって変わっていたアレンジに昇天しました。3万人の観客のみならず、屋根のない野球場から、横浜全体にズシンズシンと音が反響し、それこそ街が地震のような巨大なビートとグルーヴに飲み込まれた、と感じました。

  その後、自分の住む日本の関東圏内の彼のライブは全部観ましたが、日本を出て観たプリンスのライブは、また私にとって特別です。2002年、ミネアポリスの彼のペイズリーパーク・スタジオで行われた、Prince Celebration 2002 "Xenophobia"に参加しました。当時、海外旅行はよく行っていましたが、まさかミネアポリスへ行くとは思わなかった。プリンスファムの友人に強く誘われて、行くことを決意。今となっては、彼に本当に感謝しています。それまで海外の都会ばかり訪れていたので、小じんまりしたミネアポリスの街、のんびりとした田舎の風景、広々とした何もない景色は新鮮でした。リアルなアメリカを感じました。小さなモーテルに泊まって、7日間、毎晩プリンスを観に行く。なんと特殊な体験でしょう。初日だったか、メインの大きなライブ会場で前座のゲストの演奏中、一番後ろにもたれかかっていると、おおお!!! 袖のほうに小柄な本人が! 地味な服装で、ちらちらとステージのほうを気にして、出てきたり入ったりしている。その距離約30m。あまり彼をじっと見てはいけない、と聞いていたのでこちらも、ちらちらとしか見ることが出来なかった。

 

 翌日、ゲストの演奏後、今度もまた一番後ろにいると、暗がりの中を本人がこっちへ歩いてきた! 目の前、50cmくらいのところを、このパーティーの主役は、キラキラ反射する衣装で、のっしのっしと大股で歩き、威厳を放っていました。彼を見て、普段は感じないけれど、自分はわりと大柄なのだ、と認識。彼のリアルな大きさに驚きました。私が肉体的に最も彼に近付いた瞬間です。

 

 さらに別の日、また後ろのほう。身長2mはある大きなボディーガードの後ろにすっぽりと隠れながら進んでいる彼に遭遇。彼は見えないけれど、周囲の人のざわめきで判った。また別の日は、当時の奥さんマニュエラ・テストリーニと微笑ましく手を繋ぎながら軽やかに歩いているところも目撃。皆、ライブを観る為に前のほう前のほうへと押し掛けていたけど、人もまばらな後ろの方にいると、ステージ以外のプリンスを目撃するチャンスが多かった。

 

 彼がステージに登場するときは、私もなるべく前へ前へ行き、あるときは大勢に後ろから押されながらも、最前列をキープしました。現れた彼からはわずか2mという距離! 特に忘れられないのは、"Joy in Repetition"のアウトロで、マイクから離れた彼の生声が、唾がひっかかりそうな位置で明瞭に聞こえたこと。また別の日は、ドラム、ベース、そしてギターとボーカルのプリンス、というシンプルなバンド構成でしたが、エンディングで演奏した"Calhone Suqrre"の怒濤のギターソロ! 小柄な身体とギターからスパークし溢れる凄じいエナジーを最前列で浴びました。

 何日目か、彼がステージで、今回のイベントのテーマについて話をしたけれど、英語なので意味は1/10も理解出来なかった。その直後、なぜか私は沢山の世界中の参加者から握手を求められた。なんなんだろう?と思ったが、あとで判りました。"Xenophobia" は外国人、異民族、異教徒を恐れ、忌み嫌う、という単語。それこそが世界を一つにせず、平和を脅かしている元凶だ、と彼は話していたらしい。私の姿は当時、100kgの巨漢、黒フチの丸めがね、黄色い肌、日本以外の世界の人が抱く典型的な、マニアックな日本人のオタクの姿で、あきらかに異質だったのです、そういう存在にも心を開き、理解してみよう、というのがプリンスのメッセージでした。だから逆に彼自身も、自らストレンジな格好ばかりするんでしょうね。

 前日、ショウが終わった明け方、プリンスからのプレゼントで、近くの映画館で映画を観ました。ロビーにポップコーン油の臭いが充満する、イメージしていた通りのアメリカの田舎の映画館。場内に入ると私は、観客の若いヤンキーたちから、指をさされてゲラゲラ笑われました。こんな容姿の人間は、この田舎では滅多に見られないのでしょう。「What's your name?」「Suzuki」と答えるとさらに爆笑される。自分が当事者として"Xenophobia"を実感していたのです。自分がよく知らない者にも心を開く - プリンスが伝えたかった真意は、これだったのです。実践はなかなか難しいですが、それ以来私は、何かの折に時々思い出しています。

 2004年、MusicologyツアーのMSG公演の2ステージのチケットを取り、NYへ飛びました。Celebrationでの信じられないほどcloseなライブ体験を除くと、このとき観たのが僕の生涯ベストライブです。アメリカの観客は、日本の観客より遥かにHot!!! その日は雨模様でしたが、Purple Rainの演奏が始まると、皆が手に持っていた傘を広げて高く上げ、客席に色とりどりの傘のウェーブが広がりメロディと共鳴、会場はまさに1つになりました。僕も傘を高く掲げました。プリンスが評価していた、お行儀の良い日本の観客だったら、やらなかったでしょう、その前にセキュリティが"危険なのでやめてください"とアナウンスしていた筈、もしここが日本だったら。

 公演終了後、偶然出会った知人から、歩いてもそんなに遠くない、ミッドタウンにあるB・Bキングの店でのアフターパーティーがあるのを聞き、一緒に行った。演奏はなかったが、先ほどのライブの迫力ある映像が流れていた。"Shhh"を演奏するプリンスの叫ぶギター、ジョン・ブラックウェルの怒濤のドラミング!!! 一般客と分けられたVIPコーナーに、彼を発見! 暗かったが、4〜5mくらいの至近距離。様々なNYのゲストが来ていて、談笑する彼。僕が確認できたのは盟友、スパイク・リーの姿。同様に小柄な彼と話をしているプリンスを見た。これが、私が生で彼を見た最後となりました。

 

4. あなたのトップ3のソウル・ソング(重要曲)は何ですか? 

 

彼のスピリチュアルな曲はどれも特に大好きですが、初期〜中期作品からの3曲のチョイスです。

 

Free

この曲と出会わなかったら、今日の自分はありません。誰にでも程度の違いこそあれ、理想の前に立ちはだかる様々な悩みや障害がある。しかし、何が現実で、何がイマジネーションなのか。未来を創っていくのは何なのか。現状を変えていこう、というクリエイターを志す者にも、最もお薦めしたい曲です。

 

 

The Cross

特別な曲。映画『パープル・レイン』もそうですが、悶々としていた20代前後、自分がちょいと行き詰まって、辛い、苦し、というときに何度「サイン・オブ・ザ・タイムズ」のアルバムとビデオを鑑賞し救われたか判りません。「左にゲットー〜右には花畑〜我々は皆問題を抱えている〜大きいのやら小さいの〜もし信じるなら〜その問題は消えてなくなる〜 死ぬな〜ザ・クロスを知る前に」という歌詞に涙し、明日からの活力をもらっていました。無宗教のつもりの自分にとって、彼の音楽はまるで教会のような機能をしていたのです。

 

The Love We Make

これも、気分が落ち込んだときに聞くと、素晴らしく前向きになれる曲。命からがら、必死だった今日がまた終る。崖っぷちに居るのは私だけではない、世界中にのっぴきならない立場の人々がいる。私はジャンキーではないが"Put down the needle, put down the spoon"の部分を聞く度に、自暴自棄になるな。安易な快楽に逃げるな。決して希望を捨てるな、という彼からのメッセージを受け取っています。愛だけが、私達を救う。

 

5. 素晴らしいアーティスト/ミュージシャンをプリンスが私たちに紹介しました。あなたのお気に入りは誰ですか? どうして?

 

"ヴァニティ6"です。あの誇張された、堕落した陰媚なキャラクター設定がたまりません。まだ10代だった僕にとっては、あのランジェリー、網タイツ、ハイレグには完全に悩殺されました!! リアルタイムだったアポロニア6も同様の魅力ですが、オリジナルはヴァニティ6です。プリンス個人も、ヴァニティとは特別な仲でした。様々なアーティストをプロデュースし、楽曲を提供した彼ですが、その最初期の、女性の初プロデュースアーティストですよね。ザ・タイムと同じ時期に、商業的成功と共に、手ごたえを掴んだプロジェクトではなかったかと思います。多様なペルソナを持つプリンスの、"ナスティ"な一側面を解き放った、言わば分身でしょう。女性アーティスト、ボーカリスト向けの作曲に高い評価のある彼ですが、アルバムは、女子の心の機微、心情がとてもリアルに感じられる曲ばかりです。

 

 セックスは彼最大のモチーフ、テーマでしたが、初期のインタヴューでは「全部イマジネーションだよ。周りに女なんて一人もいなかったから。」と語っています。また「セックスするよりも、セックスを語ることのほうが難しい」というコメントもあります。健全な青年として、セックス・ファンタジーが好きなのは当然でしょうが、実際の彼は、ナイーブでシャイで異性には奥手、毎日音楽に没頭していて、それどころではなかったんじゃないでしょうか。

 

 圧倒的な美しさの、ヴァニティこと、デニース・マシューズに出会って、彼のいくつものインスピレーションの扉が全開になったのでしょう。プリンスが前座を勤めた、リック・ジェームズのお気に入りだったバニティと仲良くなってしまったことにより、その後リックからボロケチョンに攻撃されることになってしまう。しかし間もなく彼はリックよりもスケールの大きなスターになる!映画パープルレインのクランクイン直前に、彼女は去り、関係は終る。ヴァニティは、ソロアルバムや映画の主演を勤め順調に活躍していたが、その後ドラッグが原因で身体を壊し、人生は悲劇的なものになっていく。決裂後も、動向をフォローし、連絡は取りあっていたのでしょうか。プリンスが亡くなる2ヶ月前、ヴァニティは同じく若くして先立った。ステージで「昨日、大事な友達が亡くなった」とコメントし、Littl Red Corvette を演奏し彼女に捧げた。最後まで彼にとってMuch too first だった彼女。彼はまた、ステージでこうも言いました「彼女の死を嘆くのではなく、彼女は自分の人生を祝福してもらいたがっているはず」。この言葉は、そのまま今、我々がプリンスに贈りたい気持ちと重なる気がします。

 

提供した曲では、ザ・バングルスの"マニック・マンデー"、

キッドクレオール&ザ・ココナッツの"The Sex of it"、

などが好きです。

 

6. プリンスの音楽は人生の教訓とメッセージでいっぱいでした。プリンスがあなたに与えた最も重要なものは何ですか?

 

"自由な魂"です。彼ほど総てに捕われずに発想し、理想に向かって行動したミュージシャン、アーティストを私は知りません。日々生きていくうえでのモットー、また僕自身の作家性を確立する上で、彼からの影響は、あまりにも沢山ありますが、ひとつにまとめるとしたら、先にも述べた"Princeism"です。彼はどう感じ、どう考え、どうしたのか。

 

 彼の初期のインタヴューで「誰かがそういう音楽をやっていたとしたら、僕たちは違うことをやる。」「今の音楽業界の問題は、誰かがヒットを飛ばすと、皆それをなぞって同じことをやりだす。僕はそれだけはやってこなかったからね」と言っています。そういった反骨精神のようなものが彼のベースにあると思います。群れない、日和らない、皆それぞれ違った個性を持っているのだから、それを発揮すべきだ。

 また、彼は総てにおいて限界を設けませんでした。僕が、来るものは拒まず、仕事のジャンルを選ばない、っていうのも彼の影響です。世界は広いのだから、狭い世界しか知らないのは、寂しいしつまらないことだよ、と。Pop生きなきゃ、COOLにいかなきゃ!

 

7. 次世代にプリンスを紹介する方法は?

 彼の最上の曲、パフォーマンス、そしてリリックにより多く触れてもらいたいです。そして、我々がより分かりやすく彼の仕事の本質を読み解いて、橋渡ししてあげると良いのでしょう。ポピュラー音楽史的に、プリンスはどれほど先達を尊敬し、愛し、多くを吸収したか。それをどうやって自分のものに昇華したのか。また、のちに後に続く者たちにどれほど多くの影響を与えているのか。どれだけ勇気を持って新しいことをやってきたか。時代の問題点を見据え、変えようとしてきたか。

 音楽の世界にも歴史的に残る多くの偉人や天才はいるが、同時代に生き同じ空気を吸ったことのある真のカリスマについて、知ってもらいたいと強く思います。私はベートーベンやチャーリ−・パーカーを実際に観たことはないけれど、プリンスは何度も観たことがあるのです。